2014年8月5日火曜日

スコット・ニアリング著 「或る急進主義者の歩み」

 
 
 
 
 
目次
 

 『或る急進主義者の歩み - 政治的自伝』
スコット・ニアリング著 / 高橋 徹・田原正三 訳

"The Making Of A Radical- A Political Autobiography"
 by Scott Nearing 1972
 

故高橋徹先生にささげる---訳者
著者 緒言
第1部  私がかくも誇りを持って受け入れたもの
1   私の初期の教師たち
 2   教師への道
 3   経済的決定論との闘い
 4   教師は伝達せねばならぬ
 5    寡頭政治との接触と闘争と
 6   銃砲は火を吹き始めた-第一次大戦勃発  
 7    〝ハード・ノックス大学〟に登録する 
 
第2部  黄昏時の最後の輝き
8   前途を求めて 
 9   断ち切られたコミュニケーション
 10   再び銃砲は放たれた-第二次大戦勃発
 11   私は西洋文明と訣別する 
 12   大地へ帰れ-自作農園でサバイバル
 
第3部  夜明けの曙光
13  世界の夜明けを待ちつつ
 14   社会主義-偽りの夜明けかそれとも真実のか?
 15   人類生存の危険な闘い
 16   私の教育の最後の期間
 
あとがき & 解説
書籍年表 年譜
 
 
 
 
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第八章
 
 私が、はじめて奴隷地帯〔注〕の生活に接触したときには、呆然となってしまった。そこで出遭った人種差別、頽廃、搾取に、冷静に、無抵抗に受け入れるほどの心の準備は、私には何一つできていなかった。都市や田舎のスラムで目にする寝藁、汚物、不潔、不快、貧困の絶望的なブランケットに、吐き気をもよおされた。私は自問した。「いったい人間というのは、このような頽廃を一時間だって耐えられるだろうか。彼らの全人生は言うまでもなく。」それは、温和な風土的条件によって、物理的に作られたであろう、社会的低温地帯であった。奴隷地帯で育った不幸な人たちは、貧困と不潔にまみれて育ち、そうした環境の下で生きるために学んでいる。この不潔な環境は、行政の働きによって取り除かれ、社会的革命によって撤廃されない限り、終りはないのである。
 私は、優秀な支部の橋渡しをしてくれた人たちのお陰で、直接に観察をすることが出来、また、黒人(二グロ)問題の広範な研究を補足することができた。そうした人たちの協力なしには、新聞の一面に掲載されることになった、重要な黒人たちによる反乱を予知し、その価値を見極めることはできなかったし、そして六十年間にわたるブラックパワーに関しての記事や、パンフレットや、書籍から、写しをふんだんに取ることもできなかったであろう。私の著書『ブラック・アメリカ』は、一九二九年にヴァンガード・プレス社から出版され(一九六九年にはショーケンブックス社から再刊された)、アメリカにおける黒人の地位についての実地調査である。その本に使用するために数百葉の写真を入手したのである。私はまた《ブラック・アメリカ》をテーマに、私の唯一の小説、『自由に生まれて』を手がけた。これは私家版として一九三〇年に普及させた。




 『ネーション』誌は、自由主義を誇りとする雑誌であった。オズワルド・ガソリン・ウィラードの編集の下、すでに民主主義、平和、自由の十字軍(改革運動)となっていた。一九二〇年代のある企画の一つは、アーネスト・グルーニング(のちのアラスカ選出代議士となった)が編集者であった時であるが、州についての一連の記事を特集することであった。州を一つずつ採り上げ、州全体の特徴とその長所、短所を描くものだった。執筆者は各州のその土地で生まれたリベラルな住民から選ばれていた。私はグリーニング編集長に、ペンシルヴァニア州について書いてくれないかと依頼された。私はその課題を喜んで引き受け、早速、ウィリアム・ペンのことを調査しはじめた。
 裕福な家の出の英国人クウェーカー教徒で、英国国教会からの国教反対者であるウィリアム・ペンは、新世界に一角の土地を与えられた。彼は、北米の新しい自分の所有地をペンシルヴァニア(ペンの森)と呼び、そこに《兄弟愛の都市》を建設する決意をした。それは、先住民のインディアンたちに対して公正に振舞うことと、ペンシルヴァニアを理想的な、神を畏れる、キリスト教の《友愛》の精神に基づくペンシルヴァニアを創ることであった。そして、ペンが夢見た新世界における地上の楽園は、全体的な計画として、紙の上に書き付けられた。そこには、公共の福祉と、すべての人に平和をもたらすことを約束する、一種の自治国家によって取り囲まれた、立派に設計された都市をも含まれていた。
 私はペンシルヴァニアについて筆を進めながら、キリスト教の教えに従って地上の楽園を創らんとする、始祖たちの思いを力説した。私はクウェーカー教徒の指導に基づく、州の初期の歴史を取り上げ、その後、非クウェーカー教徒が次第に人口の上で多数を占めるにつれ、ある州政府の下、クウェーカー教徒が重要な少数派の役割を果すようになったことに触れた。最初に問題になったのは、ウィリアム・ペンに捺印証書を作成して譲渡されたその広大な土地で、インディアンたちを彼らの昔ながらの狩猟場から切り離したことである。ペンはその土地を、インディアンたちから代金を支払って購入していた。ところが、彼の相続人たちは、欲しがるその土地を、結果的にインディアンたちとの戦争によって奪ったのだった。
 クウェーカー教徒であり平和主義者であるウィリアム・ペンは、戦争ではなく、愛が人間の幸福を発展させる、と信じた。しかし、三世紀にわたる時代が目撃してきたのは、彼の兄弟愛の市が、兵器製造の州全体にわたる複合体の欠くべからざるものへと変貌したことである。ペンシルヴァニアは自然の恵み豊かな土地柄である。渓谷にひろがる肥沃な土地は、森が多く、ミネラルをたっぷり含んだ丘陵が幾重にも連なっている。土地ブームの後に運河ブームが続き、その後に鉄道ブームが続き、そして炭鉱、鉄、石油ブームが続いた。農業と工業が栄えた。都市間には商業が栄えた。フロンティアがオハイオ州とミシシッピー河を超えて西部へ移動して行くと、ペンシルヴァニアは移住、輸送、通信施設、商業の東西を繋ぐ通路として発展させ広がりながら、繁栄し豊かになっていった。アメリカ合州国は富が発展し野心が脹らむにつれ、指導者たちは北アメリカを超えて大陸までその支配を拡大させ、防衛する準備を行った。防衛するには、兵器を必要とした。兵器は、鉄やその他の天然資源から製造された。まさに、ペンシルヴァニアには、「防衛」のための、必要不可欠な資源が豊富にあったのだ。それにしても、西のピッツバーグから東のベツレヘムにいたるまで、州全体に跨る兵器製造へ転換したことに、いったい如何なる必然性があったのだろうか。
私がその雑誌に記事を書く頃までに、ペンシルヴァニアの鉄、銅、燃料(石炭・石油等)、そして軍需工場は、隣のデラウェア州デュポイントと結んで、地上で製造する最も広範囲な兵器製造の中心地の一つに、州全域を変貌させていた。ペンの計画した兄弟愛の社会は、もはや軍需工場や死の商人にとって替えられていたわけである。私は、私の『ネーション』記事の題目を、「ペンシルヴァニア――敬神と経済的決定論における研究」と名付けた。ところが、編集長のアーネスト・グルーニングは、「品位に欠ける」という理由で、私の記事掲載を拒否したのだ。私は彼に、「あなたは兵器工場について何か恩恵を施すのをご存知かどうか」と訊ねたものである。
左翼系の雑誌以外のどんなものにも書くことは、殆んど不可能であった。国内の重要な新聞雑誌はどれ一つとして、私の署名入りの記事を掲載しなかった。それどころか、新聞三紙と雑誌社二誌は、私の本の有料広告さえ掲載しなかった。
 出版社や雑誌編集者は、アメリカ寡頭政治の一員であった。彼らは、一流の顔ぶれではないが、読者層をつくり、広告を掲載し、出資したものに利潤を見出せるかぎりは、仕事は維持できた。私が数年前に原稿を持って、或る有名な出版社を訪ねたとき、そのなかの一人はこう訊ねたものだ。「この本は一万五千部売れますか」と。――しかし、そこに記されている言葉は真実ですか、とか、読者の幸福と福祉にプラスになりますか、ということは訊ねなかった。要するに、彼の基準は利潤であり、私が新聞に掲載するものには、商業的価値は一切なかったからである。私はもはや、本のテーマとか、書籍文筆職人の点で、本の価値を判断するような社会の住人ではなかったのだ。その主要な基準は、「その本はお金になるか」という、単なる金銭上の問題であったのである。


第十章

 五百年間、ヨーロッパは西洋文明の根源であった。一九三九年から一九四五年の間、その根源は、富と帝国権力を築き上げるのに数世紀の歳月を要し、まさに同じ人種によって荒廃させられてきた。ヨーロッパの大財閥、そして最も強力な文明化した国々は、七年間の破壊による饗宴の主たる参加者であった。ヨーロッパの平和と繁栄と進歩のデザイナーや仕立屋らは、現代のバベルの塔を取り壊し、撒き散らしたわけである。
 私の一九三一年に著わした本、『戦争―文明国による組織化された破壊と大量殺戮』は、戦争の社会学、戦争の経済学、戦争の政治学を扱ったものである。私は、戦争製造者がプロとなり、そうした戦争がことのほか非常に尊ばれ、名声、権力、富、そして国内外の政策を決定する際の主要な道具の近道になっている、と指摘した。戦争製造装置は、文明社会の特別の目的のための慣例となった。各文明が発達するにつれ、成功した戦争製造者らは支配者となり、そして戦争製造は「王権たちの娯楽となり、娯楽が王権」となったわけである。

 その論理は、全人類に一つの選択を強いる。即ち、このまま西洋文明の道を歩み続け、核兵器によるホローコーストで絶滅するか、それとも道を変え(もしまだ時間があるなら)、別な寄航港を目ざす、根本的に新しい道の新しい航海の旅に出る選択をするか、である。
 一九三六年―四五年年間は、私にとってこれまでにない高度な教育の重要な面であった。アメリカや世界の文明国における国際的な問題は、戦争の周囲を渦巻いていた。銃砲は、一九世紀に台頭した帝国を没落させ、武力外交の中心をアジア・アフリカ諸国へ移動させ、ヨーロッパに権力の空白を残し、世界の指導者の指揮棒を、青年期にあるアメリカの寡頭政治屋どもの無経験な手に委ねつつ、そうして西洋文明の土台を根こそぎにしたわけである。この革命的な転換の崩壊しつつある効果は、左翼をアメリカにおける政治勢力として排除することを可能にさせ、一挙にコミュニケーションの経路をゼロ近くまで減じることを可能にさせたのである。
 
 
 
 
 私が西洋と訣別したのは、第一次世界大戦の研究の結果、文明の中心地がその増大する経済余剰を冒険的なギャンブルによって破壊へ向け、軍事的に、絶望的な借金破産への道に突き進んだ、その確信を得たからである。軍事的な冒険主義は、経済的な防御策がなく、倫理的にも低下させ、堕落させるわけである。
 私の西洋文明に対する感情的、習慣的な掛かり合いから、最終的に引き離した事件は、あの広島市を完全に壊滅させた、ハリー・トルーマンの決断である。それは、一九四五年八月六日、私の六十二歳の誕生日に起きたのである。その日、私はトルーマン大統領に次のような手紙を書き送った。「もはやあなたの政府は私の政府ではない。今日から私たちの道は分かれる。貴殿は世界を爆破し、呪いながら、自滅の道を歩んでくれたまえ。私は協同、社会正義、人びとの福祉に基づいた、人間的な社会の建設に援助の手を差し伸べる所存です。」爾来、私は、ワシントン政府について語るとき、〈私の政府〉とか〈我々の政府〉のような言葉は、一切口にしないことにしたのである。
トルーマンのヒロシマに対する決断は、これまで現代人によって行なわれたなかでも、最も残酷な行為であった。ワシントン政府は敵を絶滅させ、アメリカ人の生命を救うために、原子爆弾の使用を決定したわけである。その決断は、紛れもなく、西洋文明の死刑宣告に他ならなかった。
 私が一九四五年八月六日以降、アメリカ政府との関係を絶ったのは、日本に対する原子爆弾の使用が人類に対する犯罪であるばかりでなく、宇宙の破壊的な軍事力の強大な増強へと導く、そうした過ちをも犯したからである。この件について言えば、私は私の予言が正当化されたとも思われる。人類は今日、核弾頭を備えた誘導ミサイルに跨っている。すべての主要国における核弾頭と、核貯蔵および核軍備による支配的な役割は、何よりの証拠である。危険な闘いは、激烈かつ潜在的な破滅の新たな段階にまで、達している

老水夫のように、私は囚われている通行人たちに、こう語っている。――諸君は諸君を破壊に導き、また、同胞の数億の民が、同じ破壊へ導く道を選択し、辿りつつある。私は助言し、反対し、警告し、そして公然と非難し、告発する。諸君は地獄への道を行くがいい。盲目的に突進するがいい。私は警告を続ける。諸君は無視してもよろしい。諸君は、足元にまだ使用されずにある、人生の無限なる豊かな可能性を目にする必要などない。諸君は諸君の道を歩みたまえ。数百万の人が諸君に先立った道を、文明社会がその心酔者に与えるガラスのビーズや、捺染されたサラサに誘惑され、堕落させられた道を歩むがよい。
 私は、アメリカの寡頭政治、アメリカ的生活様式、アメリカの世紀、アメリカ帝国、そして西洋文明に背を向ける。文明全体の繋がりは、ごく少数の人間に微かな光と、教育、歓喜、希望をもたらしてきたが、大多数の者は、暗黒、無知、悲惨、絶望の中に生死している。私はこの近視眼的な、楽天的な所業に背を向けてきた。何故なら、私たちは努力さえすれば、佳き生活に手を延ばし、創り出し、手に入れることが出来る、と確信したからである。

西洋文明とその生き方との訣別は、ローマやエジプト文明との訣別同様に、ほぼ完璧なものであった。私は、西洋文明の権力中枢であるアメリカに生き続けている。何故なら、ここは私の研究課題の一部であるからだ。しかし、私がアメリカに対して同情もしくは関心がないのは、アメリカの密偵が赤道アフリカやラテン・アメリカの前資本主義地域に潜伏していることと、同様である。アメリカの密偵は発展途上国に住んでいるが、そこには帰属してはいない。これはまさに、アメリカと私との関係についての感情であり、その中でやむをえず生きて行かなければならないわけである。